日常にお金を掛けてみるということについて(随筆)

今日、昔の知り合いから結婚祝いが届いた。その中にかわいくて柔らかな布巾が入っていた。
私は独り暮らしを始めた頃から、布巾は「白くて地味でなるべく大きくて水をよく吸うもの、それでいて安いもの」を使うようにしていて、今回いただいた布巾のような、可愛くて上質なものを使ったことがなかった。
おそらくこれも水をよく吸うだろうと思う、やわらかで可愛らしい色や柄のついた布巾。その糸の流れを指で辿りながら、自宅にある他の布巾のことを考えると、この可愛い布巾を一体いつどのように、どんな場面で使えばいいのか判らなくなった。
そもそも私は今日この布巾を手に取るまで、布巾に可愛いと呼ばれる世界があるということを知らなかった。

これはプレゼントであるという前提を抜きにして考えたのだが、ちょっとした物を買う時に前向きに品を選んで購入する事は、私にとって非常に難しいことだと思う。ちょっとした物は、比較的近くに寿命があると私が思っている物のことだ。今回の布巾以外でも、例えばタオルもそうだが。

私は布巾やタオルは2年程度で買い換えるようにしているが、それは私の感覚的な潔癖によるもので、実際どのくらいの汚れ・菌があるのかは知らないし、気持ちさえ落ち着けば良いと思っている。
では、そういった感覚的な潔癖は何のために発生しているのかと考えると、もしかしたら自分の中で、上質でないものを購入しているという思い込みや、自分に対する一種の諦観のようなものがあるからなのかも知れない。

日常のなんでもない物に対してお金を掛けるというのは日々の磨き上げに近いような気もする。私が日頃お金を掛けないと決めている・あるいは本能的にそうしてしまっている事柄に対して、その価値を認め、今と変わらない量であっても前向きに「お金を掛けてみる」という行為は、「自分に対する干からびてしまった感性」に温かい血液を通すような、感覚にむけた優しいリハビリになるのかもしれない。